昭和43年6月15日 朝の御理解 【入力者:岡村和一郎】



 「おごりがましいことをすな、…草を生やすようなことをすな」(御理解第84節)と。
 「おごりがましいことをすな。ものは細うても長う続かねば繁盛ではない」。しだいに、あのーおかげを頂いてきた。ね。(?)のおかげを頂くという前に、おかげを頂く一つ基礎と、土台というものが、必ずなからなければなりません。その上に、着々と芯ができると思うのです。次第に繁盛していく。
 (?)さんで言うならば、(?)の方が、うーん、もう10年、または15年も、それ以上の信心を続けておられる方ばかりでございますから、なら、その信心が、あー基礎になっておらなければならん。それから、まあ、細うてもぼちぼち道が開けてこなければならん。そういう開け方でないと、繁盛ではない。
 今夜はあのー、(?)なおかげの現れ方というのを申しましょうかね、うーん、信心ができるに、えー、先に、ハッとこうおかげ、(のorいわゆる?)形に見えるようなおかげが頂けれる場合があるんですけれど、これに後から信心の中身を詰めていくてことは、非常に難しいんです。
 そういう例が、まあー、いくつもありますけどもね。もう信心ができんなりにおかげを頂きますからね、あのー、つい、おごりがましいことになるんです。ね。
 つい、自分の力でできたと思うのです。そこんところに、えー、えー、なるほど、おー、まあ金銭なら金銭の上におかげを頂いておりましても、ね、その金銭の、おー、おかげが、いわゆる苦しむ元になったり、ね、いたします。
 ですから、これが、あー、神様の(どういうへんの?)ご都合っていうものは分かりませんけれども、その氏子の根気に応じておかげをやるとおっしゃるのですから、、やはりあのー、おー、根気のない、ね、(今?)やはりそのー、おかげのほうを見せなければ、うーん、ま、承知しないというような、あー、タイプの人。ね。
 どんなに、例えば修行をさせても、その修行の中身に、益々、(信味?)というかね、信心の味わいというものを悟らしてもらい、また、分からしてもろうて、じーっと辛抱しぬかしてもろうて、辛抱の徳をいよいよ身につけていくという人とが、ね。
 だから、どちらがどうっということじゃないですけれど、問題はあのー、まあー、あーーん、いわば、おかげの、おー、受けやすい人達は、ほんわかに、あのー信心をほんとにこう、おー、内容を詰めていくていうことに、信心の苦労をしないと、あー、受けたおかげに、が、かえって、あのーアザになって、おごりがましいことになって、そして結局は、頂いたおかげの有り難さといったようなものはなってくる。ね。
 受けたおかげの有り難さ、信心もだんだん薄うなってくる。第一このおごりがましいということはね、信心の薄くなるということなです。ね。ですから、まあ皆さんの場合なんか、その点おかげを受けておられる。ね。まあ今日まで辛抱してみえられたんですから。ね。
 ですから、もう、まあ、あー金輪際、ね、これからこうしてだんだん(この?)広げていくおかげを頂いて、草をその道にも草を生やさんように、だんだんおかげを頂いてまいりまして、もう、おー、おかげを落とすような、(いわゆる?)おごりがましいことにな、ならんで済むだけの信心をしっかり、今こそ鍛えておかなければならない時だ、また鍛えておられるわけでございます。ね。
 ですから、そのことをいつも、あーまあ自分の信心に検討に検討を加えてです、ここが大じょうぶなのかな、大じょうぶなものかということを、もう、あー、検討していかなければいけんと思いますね。

 昨夜の、おー、御理解に、うーん、「おかげの一貫性」ていうこと、ね。おかげはね、一貫性というものがあって生まれてくるおかげでなからなければね、危ないんです。という御理解です、ね。それは、皆がね、神様のおかげで、神様のおかげで、まあ例えばおかげを受けたとこう、いうような思い方がね、どうしても、おー、おごりがましゅうなる。信心が遅うなるです、不思議に。
 神様のおかげでおかげを受けたというのが。ね。(?)一貫性がないからです。ね。一生懸命神様拝んでから、その神様からおかげをもろうたのです。金光様の信心はどこまでも、これはあー、おかげの一貫性というものが問われるように、お取次の一貫性というもの、一貫性というものは、ね、天地の親神様から教祖の神様、教祖の神様から二代金光様、三代金光様、ね、(いわゆる?)教主様というようにです、こう、だんだんとこう、もー、信心がそこを通、たどってくる。
 そして、私どもであるなら、先輩の先生方、ね、小倉の初代、福岡の初代、久留米の初代、ここで言えば、三井教会の初代、というように、その先生方の、おー、ご信心とお取次のおかげでです、合楽にごひれいを頂いており、おかげを頂けられるようになった。これが、お取次の一貫性です。
 ですから、ね、ここでお取次を頂いて、おかげを受けられたということはね、ね、だから、「神様のおかげで」ということじゃなくなってくるのです。ね。結局、ここでおかげを受けたということは、結局、「親先生のおかげ(で?)」ということになるのです。皆さんの場合。ぅぅね。
 そすと、私の場合は、これが、あ、初代、または、あー、私どもの(縁に?)道のつながりというその、まあいうなら小倉、福岡というてきたような、あー、高徳な先生方が道を開かれなさって、苦労をされた、難儀をされた、その、おー、ご信心のお徳によって、ね、合楽に持ち上げられてきた。

 昨夜もですね、私、この、神様のほうのご祈念が終わってから、あのー、お届け帳に(立ちながらお下がり持って?)、霊神様のほうへの参りますね。その時フッと私がそのー、思ったんですよ。
 ここで皆が助かっておるのは、もういろんな(※強調)あのー、霊神、ここでは私の、おー、いわば、あー、手続きの親であるところの、うーん、ね、諸先生方の、まこれは私が、ただあのー三井教会とだけ、(あのー私?)申しませんのは、私の修行中に、その時にお働きくださった、あのー小倉、福岡、ね、久留米、同時に三井教会。
 これは私の修行中の時分の、(すりかわり?)えー、あの、私どものぎょ、修行、このみ、あの、監視してたって言うんでしょうかね、もっとこう見てくださった。ね。それから様々に、にー、ま、あー、(?)の、ま、例えて言うならば、桂先生の厳しい修行を、で教えて頂きよるかと思うと、久留米の初代の石橋先生が、それをこう、なだめすかすように、えー、うーん、ま、豊かな心でですね、えー、教えてくださったり、といったような具合にも、まあいうなら、手を替え品を替えしてその、おかげでそこにも私が、そのだいたいの思いがですね、そこにあったからであろうと、こう思いますですね。

 小倉の桂先生が、このような修行をなさったと、と聞けば、あー、桂先生というも、やはり生身を持ったる人間のことですから、私にできないことはなかろうと、私が思うた。ね。というようなふうにですね、福岡の場合でも、久留米の場合でも、三井教会の場合にもです、もう先生方がなさった、これは三井教会の荒巻弓次郎先生がなさった修行だと思うのを、何からでも、私はさして頂こうというふうに発心したんですね。
 そういうところからですね、様々なその私の手続きの、うーん、上においての、(平常らく?)のお取次を頂くことがでけ、いわば鍛えてくださることができたというふうに、まあ思うのですけれども。
 ですから、(する?)、私のい、いつも実感の中にですね、ほんとあのー、うー、御霊様達のお取次を頂いて初めて、ここでおかげが受けられるのだ。それを受け止められるためには、いよいよ私の信心(にでもと?)、思い上がりを(なお思いが?)あっちゃならんという思い、(?)。
 それがややもすると、私が(?)、私が一生懸命お願いしたからといったようなものが、ないじゃないけれども、そこをいつもこう反省さしてもらうわけです。
 いつもその実感でいっぱいでした。ですから、お届け帳を(?)、それが(?)、足もとにですね、大きなおいさみを頂くんですよ、(?)。うん。そういうね、そのー、こ、心の状態の中に私は、おごりがましゅうなろうとするところを、おごりがましゅうならんで済むおかげが受けられると思うのです。

 これがですね、ただ神様のおかげ、っていうことになるとですね、もうお道の信心の、おー、これは、あーそのーまあ独特なものっというかね、一貫性というものがなくなるんです。
 ですから、皆さんが、親先生のおかげで助かった、ここは(?)その、親先生(だいさん?)になってしまいますけれども、まあそこんところを間違わんように、いっちょください。ね。
 親先生のおかげ、親先生あったればこそ、今日私どもの信心があるんだ、というようなその思い込みがですね、あのーおー、どういうことになるかというと、それが、いうならば、あー初代、または、あー、こん、ね、三代金光様、または二代金光様、教祖様、そして天地の親神様へ、やっぱり一貫したものになるわけなんです。親先生のおかげで、っという信心になってくるんです。

 そこで私昨日は、御理解を終わってから、あのー、先生方、あーに私が(?)の中でお話するんですよ。「今晩の御理解はたいへんな御理解でしたよ」と。「今日はあの(?)頂く御理解じゃないくてね、これは取次がせて頂く者の、が頂かなければならん御理解だった。というのはね、今日の御理解はね、お取次を頂く、その先生のおかげで、こういうおかげが受けられるようになった、というのであるから、取次がせて頂く者はね、いよいよ信者から尊敬され、拝まれる」、ね。

 昨日、おー、昨日、今日の晩遅う若先生帰ってまいりました。ご本部から大阪の方へここ(?)修行にまいっておられましたあの、おー明渡先生という方の、方が学院が同期ですから、あちらに泊まらしてもろうて、そして、玉水とか、あー、泉尾あたりの、おーごひれいの輝くのですね、あのー、教会にお参りをさして頂いた。

 もうあちらの話を聞きますと、もうさらさら驚くばかりでございますねえ。とにかく日本中でですね、一年間にね、これはまあ余談でございますけれども、一億円という、いわば水揚げですねえ、その、おー、お初穂のお供えのあるところが、日本中で6件あるそうです。
 その6件の(くんどあか?)、あの、大阪のほうです。大したことですよね。うちあたりは、まあその、ようやく10分の1、ね、九州にはそういうとこはまずない。けれども、どこを回っても感じてきたことはね、今合楽の(信心の生き方で?)いってますように、まあだ基礎だという。こりゃあ、とても泉尾がどうこっちゃなか、ならこりゃ合楽もいよいよ、ごひれいが輝いた時には、泉尾ぐらいのこっちゃないなと、若先生思うてきたっち言うて、帰って話しておりました。
 現在の合楽でのこの基礎が、ほんとのものにしっかりなったならですね、泉尾ぐらいなこっちゃなか。そりゃもうあちらは、(商都?)と言われる、もう商売人の都ですから、経済という(意味に合いましては?)非常にやっぱり、その、おー、何ち言うんですかね、その、財の面ではやはりおかげを受けておるですね。
 で、その信心の内容というたら、まあ別に、何というんですかね、まあ別にということはないけども、あの、何とはなしにお粗末な感じが(あったら?)そういう生き方(もって?)分かりゃしますまいけれども、(と思う?)ですね。

 そういう中に、にーそのー、おー、秋永先生ところにも、オー、でおかげ頂いて(おります?)。あちらでそのー、大、教会の一つのスタイルとでも申しましょうかね、非常ーにその、気合いのかかったう、教会が(?)ね、もう正面に「気合」て大きな字で(笑)ああいうかかったその額が、ほんでもう行ったら最後ですね、もう親先生のことを「金光様」と言うとですよ。
 こりゃどうかと私思いますけどね。「金光様、おはようございまーす!」ていう内容(?)。そらそこの奥様なんでも、そりゃやっぱ親先生のことを、「金光様おはようございます」という、んー、それこそ気合いが満ち溢れておる。
 まあもーう、ご祈念なんかでもそりゃもう、たいへんなものらしいですね。もうそれで、まあいうなら祈念力で、まあそこの教会は助かっておられるというような感じのところ(て言ってました)。
 祈念力も大事だけれども、もう、ほんと言うたらですね、えー、やはり、祈念力じゃなくて、やっぱりあの-、おー、ほんとに私どもの信心が本当のことにならして頂いてから、頂くおかげでなからなければ、ほんとなこっちゃなかろうと思いますけれどもね。まあそれはそこの教会教会の、まあ建て前でございますけれども。ね。
 そういうその、おー、ほんとに金光さんとして仰がれる先生は、やっぱ素晴らしい。ね。ですから、いつも私が申しますように、神様のおかげで助かったといったような教会、のところでは、大したごへいれが立たん。もうそういう信者では、必ずおごりがましいことになる。
 けれども、親先生のおかげでね、親先生のおかげで、親先生あって私があるんだ、というような信者さんであったり、教会であるならもう絶対、これはおかげを頂いておりますですね。ね。
 そして同時に、親先生のおかげですから、ね、おごりがましいという心も出らんわけでもないでしょうけども、やはり、ね、身近にござる。(皆もっておらした?)ね。そういう意味で、私は基礎を大事にしていくということが大事である。

 細い道でも次第に踏み広げて(?)。(?)此方の道というのは(?)ね。此方の道とはどういう道か。お互いの、それぞれの、商売人なら商売人、百姓しておるなら百姓民の道である、商売人の道である。
 そういう道が開けれくる。そういう道にです、草をはやすようなことであったら、やはり、これはおかげを受けられません。ね。草を生やすということは、ね、おごりがましいということ。(沈黙)そこのところを、私がご神訓を頂きましたですね。
 陰と日なたの心を持つこととこう(?)。ね。陰と日なたの心を持ちますとね、ここんところちょっと今、ずいぶん、もっと深いものだと思いますけれども、陰と日なたの心を持ちますとね、ね、まあここの場合は、あー、どうでしょうかね。うーん。
 日なたの時にはおかげを受けても、風の時には、草、この、草が生えてきたような感じがいたし、それは反対にどっちでもいいですね、実際問題としては、日なたのところが草が生えるでしょう。ね。とにかくあの、裏表のある心というわけです。ね。
 そういうところに私は、昨日も、(?)夕べも、おー(部屋でも?)申しましたようにですね、こりゃいよいよお取次をさして頂く者は、信者の皆さんから(です?)、「ほんとに先生のおかげで助かりました」と言われるためには、いよいよ、例えばあの、拝まれる先生にならなければいけない。というて、今晩の御理解は、ね、拝みなさいというのじゃあない、拝まにゃおられないということになってこなきゃならない。
 そういう意味じゃ、拝まれる先生にならなきゃならないということと同時に、これは信者の皆さんでもです、ね、まずやはり自分自身の心が拝めれるようにならなければ、人が拝めないものでもございませんけれども、第一は、取次をさしてもらう先生が拝まれるようになるために、いよいよ陰と日なたがあっちゃならんよ、裏と表があっちゃならんよ、お広前では立派でも、ね、裏に下がったら、いわば、割り切った、あーこのーおー、性格、生き方というようなことでは、ね、信者が幻滅を感じる。

 それでは、いわゆる金光教の信心の、この、おー一貫した、一貫性を持ったおかげということになってこない。一貫性を持たないおかげであるところに、ね、おごりがましいことになる、道に草、草を生やすようなことになって、おかげを受けられん、共々におかげが受けられんようになる。
 こりゃもう非常に、取次ぐ者、取次がれる者が、いよいよ(?)その心、といったような心に本気で取り組ましぇて頂いて、ね、絶えず、おごりがましいことがあってはならないということを思う。
 そのおごりがましい心が出らないというのもです、ね、出、出らんで済むというのも、神様のおかげと、いうような、うー、内容のおかげであっては、どうしてもおごりがましゅうなっていく。ね。 おかげが、あー、いわば漏れやすい。けれどもほんとに、親先生のおかげでというようなおかげであるならですね、親先生がいつも見守っておってくださる。間違い(のと?)、そげなこつでよか(のー?)というふうに言われるわけです。また実際にそうです。ね。
 ですから、ポッとこう改めていくことができる。ね。けれどもその、神様のおかげというのはね、神様、は、そういうともかくも、ね、私どもに呼びかけてくださることもできないし、または、その様々なその(意味で?)、(意味よせて?)くださりよっても、凡夫のことでございますから、神の声を聞き取ることができましぇんから、ついつい、お、おごりがましゅうなり、しかも、神様のおかげがだんだん、遠いものになっていく。ね。
 そして、えー、毎日参りよったつが、一週間に一遍になり、一週間に一遍が、あー月に何回かといったようなことになって、信心まで疎かになってしまうのです。これは、もう必ず道に草がどんどん生えよるということ。ね。

 夕べの御理解から申しますと、「真に有り難いと思う心、すぐにみかげのはじめなり」という、真に有り難いということは、ね、金光様のご信心で、真に有り難いということは、神様のおかげで有り難いと真に思うのじゃ、金光教徒じゃないちゅう。真に有り難いというのは、もう親先生のおかげで、ね、親先生あって生まれてくるものがなからなければ、一貫性のない有り難いになるから、ね、おかげにならん。
 「親先生のおかげで」っていうことは、金光大神に結ぶ、天地の親神様に通ずることになる、というような御理解でした。(皆さん?)どーでも(ここにはですね?)チュェ(※口ならす)親先生のおかげでという信心を頂かなかりゃならん。そこにはもうほんとに、もう親先生たるものの、たいへんに難しいことでない。皆から大事にされたい、皆から尊ばれたい、と思うて、ね、例えば演出して、お芝居で、もう、お芝居でいうならば、「金光さまー」て言わせるだけではいけませんもんね。口だけじゃ。ね。
 ですから、もう心から、例えて言うなら、金光様と言わなければおられない信心。同時に、お互いの心の中にも、そこに、そうではなくても、拝まなければおられない、いわば、内容を銘々をもってということ。

 「真に有り難いと思う心は、すぐにみかげのはじめ」、と言われる真に有り難いというのは、ね、お取次のおかげで今日のおかげがある、親先生のおかげで今日の私があると、それから生まれてくる「真に有り難い」のはです、一貫性のある有り難さであるから、ね、これならば、いつも親先生が見守っておってくださり、身近に親先生がござり、ね。
 例えば、あー、甘木の平田さんの(?)おりましたがね、うーん、(?)あたりがもう口を開かれたら、一番に出るのは「親先生」ですね。(?)。もう心から根から、親先生のおかげでというものを頂(き込んどられる?)。それほどに、甘木の初代は偉かったということになるわけです。ね。
 ね、明日からね、ほんとにこういうふうなところをね、聴教して頂く者も、やっぱり素晴らしい信心を、いよいよ身につけていかなければならんですけれどもね。ですから、そこから生まれてくる「真に有り難い」と、そういう有り難いがあるとですね、おごりがましいことをせんで済む、言わんで済むことになる。
 こりゃまあ、あー、それこそ、お叱りを頂くかもしれませんけれども、ね、甘木の初代が亡くなられた。最近、どうも平田さんの信心が、「ふみお」先生っていうのが、今の親先生らしいですね。とその仲があんまり良くない。親先生を親先生と立てなさらん。もう初代の親先生だけのことに、ね、絞られた、というような非難の声があり、先日も、秋永先生に、あるその信徒会長が「どうも平田さんの信心がこうだ」といったようなその、非難、うー、があった。けれども、「別に信心はどうこうっということはない」といったように、説明したり言うても、それはそういう見方をされ(ん?)というところに、もう親先生が少し遠いものになっておる。御霊様の(?)ようになる。「教えらにゃ!」て言うてその、怒られる人がなくなった。

 だから私は、昨日も私はある方と話したことなんですけども、例えば、石田先生とかですね、平田さんあたりの、ああいうたいへんなおかげを実際、お道の上にも頂いて、例えば、その、おー、一番大きいその(お便所で?)言うておりました、大阪の泉尾なんかでも、(最低一時間、もうおばさんよりも、ま、もっと受けたそうですね?)。たいへんなお広前だそうです。ね。
 ところが本部では、これは取り上げないでしょうが。ね。うそっ、金光では、泉尾の信心をですね、受け入れようとしないのです。だから、ほんとに本部もまあちっと大きいならにゃいけんなあ、ああいう素晴らしいごひれいが立ってる教会を、いわば取り入れて、そういうごひれいの立つように、他にまあ、宣伝ちわけじゃないけれども、おーその、いわば宣伝、(?)したっちゃよかと思われると、私はまあ言うたことですけれども、まあこれは一信徒の上でもそうです。
 平田さんの(その?)信じ、信心のです、ここがあたりの教会でも、教会(?)非常に排斥すると言われ(たそうです?)ね。ね。(?)でも、ご本部では、は、それを全面的には受け入れない、非常に(範囲?)を少なくされるんですね。
 なぜか。ね。そういう、いわばケツの穴の小さいことではいけんというふうに、まあ思いますけれどもですね、その反面、もういっちょ引っくり返してみると、もう、(?)先生だって(平田?)さんだってですね、どこにか、おごりがましい(よる?)ものが出てきておるんじゃなかろうかと、こりゃ(?)としては反省しなければいけないと思うんですね。合楽の場合でも同じですよ。ね。

 ですから、えーそれをね、受け入れ、ああいうおかげの一つの見本、手本というものを持っておられるのですから、そこを敬わなければならんのですけれども、それを受け入れさせまいとするようなやはり、おごりがましいといったよう(?)がです、(?)甘木の初代がおられる時に、甘木の初代と平田さんとの場合であったら、それこそ、いうならおごりがましいといったようなことやらは、もう、ね、例えて言うなら、もう青年会長奈落しておられました。
 もうー、おー、50も(そういうふう?)になってからも青年会長です。だから、もう自分の、せ、青年会長の席にあるではない。もう、ですからもう若いもんに譲る、ていうて親先生にお届けした時に、「(?)決断せにゃんばい」ちおっしゃったそうです。
 まあだ、あんた(?)若い。そういうことを言う人が、(皆さんの?)なくなったことをですね、平田さん自身がやはり(ご自宅にいなさらなきゃ?)いかんのじゃなかろうか。ね。
 この頃忘れて火事があったという時にも、そうやってお夢で(?)のことを頂いたんですけれども、ちょうどそのことを気づか、気づいておられないのじゃなかろうか。あのように素晴らしいし、あのように、いわば、あー、たいへんなおかげを受けておられるのであっても、私、おごりがましいというようなものが、(だんだん?)信心に出てくると、ね、そこに道に草を生やすようなことにもなりかねないのでございますから、私どももおかげを受けなきゃならん。ね。
 ためには、いよいよ私どもがですね、(?)の合楽の信心を、ほんとに身につけて、ね、どこの隙からも草を生やさんで済むだけの、おー、油断のない信心を、そういう信心の基礎を本気で作らしてもろうて、その上に(生き?)さしてもらうところのおかげ、そこから付いてくるところの道を願わなければならんというふうに思うですね。

 おごりがましいことをすな。おごりがましいことになると、必ず教会を、が疎遠になります。ね。を離れるようになります。ね。同時に、おごりがましいというのは、ね、陰と日なたの心を持つということ。ね。
 しだいに踏み広げて通る(ようなからな?)繁盛じゃないという繁盛。私どもはどこまでも、しだいに踏み広げていくおかげを頂きたい。これはまあ、こんなおかげも受けられるぞというような場合に、(使われる?)人もあります。信心もでけんのにか、バアッーと一遍におかげを頂く、(いわば~的?)なおかげを頂く。そすと、(本当な?)神様のおかげでって言いよるけれども、だんだん神様のおかげですらだなくなる。親先生なんか全然問題じゃなくなってきている。そして、いわばたいへん苦しいと、ことに、いわば草がボーボーに生えてくるといったようなことになってです、ね、肝心要のものまでが、(腐り出しそうにこう表象されて?)しまうような結果になってくる。そして、いうならおごりがましい、自分の身分、自分の信心の徳も弁えずに、ね、結局おごりがましいことをする。
 これでは、おか、お道の信心を頂いて頂くおかげと、(?)ことから本当なものになってくる、の、うー焦点を、それを踏み広げて通るようなおかげを頂きたい。ね。同時に、(?)今こそ、えー草を生やさんで済むだけの信心をですね、頂いておかなければならんと思うのです。どうぞ。